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新見簡易裁判所 昭和35年(ろ)2号 判決

被告人 井上一二三

明四四・一二・一三生 豆腐製造販売業

主文

被告人を罰金四千円に処する。

右罰金を完納することができないときは、金二百五十円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置する。

被告人が昭和三十五年二月五日午前十時十分頃第二種原動機付自転車哲西町〇二七号を運転し阿哲郡西町大字畑木七百七十一番地先付近県道を時速二十粁位で北進中、同一方向に歩行中の山本キヌヨを追い越そうとした際右原動機付自転車を同人の右足及び右袖に接触させ因つて同人に加療約一ヶ月の右腓脹部汚染性化膿性割創等を負わせ、同人に救護の措置を講じたが所轄警察職員に届出てその指示を受けないでそのまま運転を継続したとの点は無罪。

理由

一、罪となるべき事実

被告人は原動機付自転車運転の業務に従事している者であるが昭和三十五年二月五日午前十時十分頃、第二種原動機付自転車哲西町〇二七号を運転し阿哲郡哲西町大字畑木七百七十一番地先の巾員三米半の県道を時速二十粁位で北進中、前方道路中央付近を同一方向に歩行中の山本キヌヨ当四十八年を認め、これを追越そうとしたものであるが同人は後も振り向かず歩行しているので車の進行に気ずいていないかもわからず、もし気ずいたとしてもその距離等の間隔もわからないのであるからこのような場合運転者としては他に交通もないので警音器を吹鳴する等によつて車の進行を知らせその避譲するを待つて進行するか、或は相手の左右の両側も狭いので速度を極度に減じ相手の挙止を注視し危険な場合は直ちに停車できるようにして追越すべき業務上の注意義務があるのに被告人は相手方はそのまま道路の中央付近を進むものと速断し不注意にも警音器を吹鳴して進行を知らせる等のことをせず従前のままの速度でその右側を追越し得べきものとして漫然進行していた過失により同人の背後四、五米に迫つた際車の進行に気ずいた同人がこれを避けるべく道路右側に移動したのであわてて把手を更に右に切つて避けようとしたが及ばず遂に自己の車体を同人の右足及び右袖に接触させ因つて同人に対し加療約一ヶ月を要する右腓脹部汚染性化膿性割創等の傷害を与えたものである。

二、証拠

判示の事実は

1、被告人の当公判廷における供述

2、被告人の司法警察員並に検察官に対する供述調書、山本キヌヨの司法巡査に対する供述調書、医師小川広史の山本キヌヨに対する診断書、司法警察員作成の実況見分調書の各記載

を綜合してこれを認定する。

三、法律の適用

被告人の判示の所為は刑法第二百十一条の業務上過失傷害の罪に該当するから所定刑中罰金刑を選択し、罰金等臨時措置法第二条第一項により被告人を罰金四千円に処し、罰金不完納の場合の労役場留置については刑法第十八条を適用して金二百五十円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置することとした。

無罪の点についての判断

憲法第三十八条第一項は何人も自己に不利益な供述を強要されないと規定して何人も自己に不利益な供述でも進んですることは自由であるがこれを強制して不利益な供述をなさしむることのないように保障している国の基本法たる憲法上の大原則である。

然るにこの国の基本法たる憲法の大原則を無視し実際上改廃してその効力を阻止しているのが道路交通取締法施行令第六十七条第二項である。この規定は自己に不利益な供述でも進んでしたもの即ち犯罪の端緒を報告したものはそれを理由に引換としてその届出により無届としての刑罰を科さないが、その報告をしなかつたものにはこの無届に対して刑罰を以て臨み即ちその届出報告を強要しているのである。

同項は道路交通取締法第二十四条第一項の「車馬又は軌道車の交通に因り人の殺傷又は物の損壊があつた場合においては車馬又は軌道車の操縦者又は乗務員その他の従業者は命令の定むるところにより被害者の救護その他必要な措置を講じなければならない」という規定を受けたもので同法施行令第六十七条第二項は「車馬又は軌道車の操縦者はその交通により人の殺傷又は物の損壊があつた場合にその操縦者、乗務員その他の従業者は直ちに被害者の救護又は道路における危険の防止その他交通の安全を図るため必要な措置を終えた場合において警察官が現場にいないときは直ちに事故の内容及び同項の規定により講じた措置を当該事故の発生地を管轄する警察署の警察官に報告し且つ車馬もしくは軌道車の操縦を継続し又は現場を去ることについて警察官の指示を受けなければならない」と規定してその委任により規定するところは直ちに被害者を救護すること、又は道路における危険の防止その他交通の安全を図るため必要な措置を終えた場合において警察官が現場にいないときは直ちに事故の内容即ちその内容は誰が何処でどのようなことからどのような事故を起したというようなことと被害者を救護した状況と講じた措置を当該事故の発生地を管轄する警察署の警察官に報告し、且つ車馬もしくは軌道車の操縦を継続し又は現場を去ることについて警察官の指示を受けるべきであつてこれ等の手続をなさず警察官の指示を待たずして現場を去つた場合は刑罰を科せられるのである。右同法第二十四条第一項を規定するに当り同法施行令第六十七条第二項がこのように規定せられることを予想し、これを期待して政令に委任したであろうか。道路交通取締法が制定せられるに当つては右憲法第三十八条第一項の存在を前提としてその趣旨が適用せられるものとして国会の承認を得て制定されたものであることは否定することのできない事実であるから同上施行令第六十七条第二項もその趣旨に従つて規定すべきものであつて例外として事故の発生を警察官に報告しなかつた場合に刑罰を科する必要があつたとしても同上施行令中にその規定を設けるべきでなく委任した同法を改正し同法中にその旨を規定し前記憲法第三十八条第一項の規定の例外規定であることを明確にし国民に警告すべきであつたであろうしその親切があつて然るべきであろう。抜打的に委任した同法の趣旨を逸脱し国会の承認を得ない前記憲法の規定を無視した恥ずべき規定を制定すべきではない。

前記施行令の規定が一見事故発生後の手続であつて前に発生した事故とは無関係の如く思料されるけれども事故の内容の報告を規定しているので前に発生した事故と関連性があるのであつてこの関連性のある届出をなさず、又これをしても警察官の指示を待たず現場を去るときは刑罰を科せられるのでこの刑罰を免れんとすればこれにより前に発生した事故の端緒をつかみ得られることとなつている。どうしてこの規定が前に発生した事故と切り離したものでその報告する事故の内容は警察官の指示を受けるに必要な限度で足りるということができるであろうか、このことは右規定の何処に規定しているのかその内容の範囲も抽象的に表現する以外明示することができないしもとより規定もしておらない。当該操縦者の過失を推知させる具体的事実等そのものが刑事責任を問われるおそれのある事項を包含されないとの規定もないしその届出により直ちに証拠保全のため実況見分等捜査が開始せられているのが今日の実状であるし、又捜査の要諦でもあるからこの規定は明かに前記憲法第三十八条第一項の規定を否定し自己に不利益な供述を強要するものにほかならないのである。もとよりその届出報告をなすべき当時はその義務者に刑事上の責任ありや否やの嫌疑は未定のときであるけれども事故の発生により何人も届出報告を要することになつているがもし刑事上の責任を負担すべき嫌疑により捜査を開始せられたるときは既に被疑者となつたものは事故の発生を届出報告しているので本規定による刑罰は科せられないが事故を発生した事犯については右憲法の保障する供述拒否権は何等の意味のないことになる。被疑者においてすらこの供述拒否権があるのに未だ犯罪の端緒ともならないときに事故を発生したものに対し何故被疑者以上の所遇をしなければならないのか。

憲法第三十八条第一項の供述拒否権の保障は自己の刑事上の責任を問われるおそれのある事項に限られており従つてその犯罪発覚の端緒となり得る事項を包含するのでなければ何等の意味がない。右道路交通取締法施行令第六十七条第二項の届出報告の義務は事故発生についてその事故全部を指し刑事上の責任のないものに限られていないのであるから犯罪発覚の端緒となる以前のもの或は以後のものとして区別せらるべきものではない。只この届出報告により右規定による刑罰を科せられないことになるのであるが事故のあつた犯罪の端緒をつかみ得る便宜が含まれていることは疑うの余地がない。この便宜を得るため右憲法の供述拒否権の保障に牴触する右規定を設けたものと認められるから無効の政令というべきである。この規定が道路交通取締法中に規定せられているのであれば格別、然らざる以上この規定をそのまま看過することはできない。この明瞭なる事実に対してこの法令の存在を許容するために内容の判然としない瞹昧なる字句を使用してかかる法令の存在を許容すべきものではないと思料する。

尚、この規定と対照して刑事訴訟法第百九十八条の被疑者の出頭要求取調の規定においてその第一項に「検察官、検察事務官又は司法警察職員は犯罪の捜査をするについて必要あるときは被疑者の出頭を求め、これを取調べることができる。但し被疑者は逮捕又は勾留されている場合を除いては出頭を拒み又は出頭後何時でも退去することができる」と規定し、同条第二項は「前段の取調べに際しては被疑者に対しあらかじめ自己の意思に反して供述する必要がない旨を告げなければならない」と規定して前記憲法第三十八条第一項と対応して被疑者の供述についてかくまでも被疑者の自由を尊重すると共にこれを保障して一般犯罪について被疑者の取調べに慎重を期しており、又同法第二百九十一条の公判の冒頭手続においてもその第一項に「検察官はまず起訴状を朗読しなければならない」とし同上第二項において「裁判長は起訴状の朗読が終つた後被告人に対し終始沈黙し、又は個々の質問に対し陳述を拒むことができる。その他裁判所の規則で定める被告人の権利を保障するために必要な事項を告げた上被告人及び弁護人に対し被告事件について陳述する機会を与えなければならない」と規定しているのである。

然るにこのような手続を取る段階に至る以前において既に一片の政令をもつて未だ被疑者ともならず、被疑者たらんとするものに対し前記保障を無視し事故の内容の届出報告の義務を協要しこれに従わないものに対しては刑罰を以つて臨み事故による犯罪の発覚の端緒をつかむ方法を規定したもので憲法第三十八条第一項の規定を遵奉することを前提としてこの規定に反することなきことを期待して制定されたる道路交通取締法の期待に反し委任の趣旨を著しく逸脱しこれに背馳する前記規定を設けたものであるから当然無効の法令というべきである、然らば右公訴事実は当裁判所において無効と認定する法令により起訴せられたものであるから刑事訴訟法第三百三十六条により被告人に対し無罪の言渡をなすべきものである。

よつて主文のとおり判決する。

(裁判官 魚谷市左衛門)

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